予言
予言とは、ある物事について、実現に先立って、あらかじめそのことについて、言明することを指します。
神秘的現象としてよく予言という言葉が使われますが、そうした中では、中々、合理的に説明することは難しいものです。
一般的には、予言というのは、推論の方法によって未来の事象を語ることを差し示しています。
また、予言は通常、占星術やチャネリングと同様に、疑似科学の領域の問題として、取扱われることが得てして多いものです。
未来の事象を扱う場合において、自然科学や社会科学で合理的説明が可能なものについは、予言とは言いません。
人間の身近な物体の運動や天気予報、人口推計などについては、一般的には予言としては扱いません。
啓示宗教における 預言と予測については、予言と混同することがありますが、原則、本来的に異なる概念として捉えています。
予言には、未来を語ったものが含まれていることが必要であり、予言者が未来の事象について語る時に用いられます。
その過程においては、予言は予言者の意識活動によって想起するものであり、それは他の題材に対する創作活動と何ら変わるところはありません。
ただ、未来の事象を予測するのが予言なので、推論過程について合理的な説明がないというのが1つの特徴になります。
その内容の当否について議論しようとするところに、予言の特殊性があり、曖昧模糊としたものなのです。
純粋に予言者が想起する予言もありますが、道具や情報を補助的に用いるという占術的に発想によるものもあります。
占いによる具体的な事象への予言の適用については、あくまで占術師の予言想起の過程を経て生まれるものです。
ただ、合理的説明を伴わないという観点からすると、これも1つの予言であることに違いはありません。
予言は、それが何かであるかと考えた場合、それは意志との違いを考えていくと明白になります。
意志は自分自身の未来に関して心に期するものであるのに対し、予言は、個人の意志ではどうすることもできない未来の事象を差します。
ただ、意志と予言の区別がつきにくいこともあり、なぜなら現代では、かつて個人の意志ではできなかったことができるようになってきたからです。
つまり、人類滅亡という予言も、もはや、意志の範疇の中に入ってしまっているのです。
そう考えると、予言という観念は実に曖昧で、すべての根本は、意志であったと考えることもできます。
イエスキリストの最大の証拠は予言であると言われていますが、それは、福音を信じさせる1つのきっかけであったに過ぎないとも言われています。